福岡県PTA連合会機関誌/令和元年9月号から「枝豆は胸が焼ける?/NO.105」
  わが家は茹(ゆ)でたての枝豆を熱々でいただくのが胃にもたれず好みです。枝豆は大豆の未熟なものですが、やはり豆なので多少不消化です。小さなお子さんやお年寄りがいる家庭では少し柔らかめに茹でましょう。

 大豆は縄文時代から弥生時代にかけて稲とともに渡来した五穀の一つだと言われています。文献によると枝豆として食べられ始めたのは平安時代から鎌倉時代にかけてとか。未熟なうちに食べるなんて当時はとてもぜいたくなことだったと思います。

 熟した大豆は畑の肉と言われるようにたんぱく質が豊富ですが、ほかにも、食物繊維、ビタミンB1やB2、葉酸、鉄、カリウムなどの栄養素が含まれています。未熟な枝豆は大豆の3分の1程度の栄養価だと覚えておくと良いのですが、大豆にないビタミンCとカロチンを含みます。

 鮮度が落ちやすいので最近まではほぼ枝付きで売られていたので「枝豆」田んぼのあぜ道で栽培されるので「あぜ豆」とも呼ばれていました。

 最近では冷凍技術がすばらしく栄養価の損失も少なく年中いただけて便利ですが、白に鮮やかなグリーンの豆の対比が美しい枝豆御飯は暑い時期の料理です。2合のお米に茹でて鞘(さや)から出した枝豆を1カップ用意します。いつもより少し多めの水加減にして塩を小さじ1弱混ぜて普通にスイッチを入れます。新ショウガを小さく線に切って加えるのも大人の味です。

 今回ちょっと話が外れますが。枝豆を食べるたびに思い出すことがあります。20年も昔の話でしつこい性格がバレそうですが。テレビで枝豆の皮を食べようというテーマをやるので考えてくださいとディレクター。今のようにインターネットで簡単に調べられる時代ではないので書棚の植物関連の本を全て引っ張り出しましたが参考になる記載は一切ありません。放送は明日に迫っています。次に食の随筆をあれこれと…空が白み始める頃やっと見つけました。「枝豆の皮は二重構造になっているので、内側のプラスチック状の皮を取り除き外側の皮をもむように洗ってから薄味で煮付けます」と。やったー。執念で見つけました。あまりにうれしくて放送当日テレビ局の化粧室でそのことをしゃべりました。さて本番です。なんと若いレポーターさんが化粧室での話をそのまましたのです。私は頭の中が真っ白に…。枝豆を食べすぎると胸が焼けるのはこのせいかもしれません。

福岡県PTA連合会機関誌/令和3年7月号から「台所は危険がいっぱい/NO.104」
 コロナ禍で外出が減って子どもたちと一緒に過ごす時間が増えたとしたらそれは家族と一緒に台所に立つ絶好のチャンスです。

 私は若い頃、忙しすぎて子どもが台所に入ってくるのが嫌でした。足手まといになって。いつもより料理にずっと時間がかかるから。悪い母親ですね。気持ちの余裕がなかったのです。

 料理に興味を持たせる。料理を覚える。それも、もちろんですが、もっと大切なことは子どもたちに「台所は危険がいっぱいだ」と知ってもらいたいのです。

 いろんな種類の刃物、沸騰したお湯、それ以上に高温になる油、電子レンジの取り扱い。安全な付き合い方を覚えるのは実践しかありません。

 経験がないと油が怖いから材料を遠くから投げ込む。危ないですね。落ち着いてそっと表面に近いところから落とすことを教えましょう、きっと一度で覚えてくれますよ。

 茹(ゆ)で物をした熱いお湯をシンクに流すときは「熱いものが行きますよー」と、声をかけて流しから少し離れてもらいます。手を出さないようにしっかり言い聞かせてください。手伝いたいと思ってザルを押さえようとするのが人間の心理ですから。複数で台所に立
つときには声を掛け合うのがルールです。

 包丁を使った後は手から離さず、すぐに洗って安全な場所に置きます。汚れた調理器具の入っている洗い桶に入れるなんて一番してはいけないことです。包丁を置く場所は決めておきましょう。刃先を決して人のいる方向に向けないようにするのはマナーでもあります。

 電子レンジで牛乳を温めていてレンジのドアを開けたら全部噴きこぼれていたという経験はありませんか。これは突沸(とっぷつ)という現象です。

 液体は100度を超えると沸騰するのですが、条件によって沸騰しないことがあるのです。これを過加熱と言い、振動や塩や砂糖を加えるなどの小さな衝撃が加わるだけで突然激しく沸騰して中身が飛び出します。

 牛乳や豆乳やカレーなどのトロミがあるものは少し大きめの余裕のある入れ物に入れて短めにタイマーをかけます。時間は経験者がアドバイスしてあげてください。お鍋の中でも同じ現象が起こるのでお鍋も余裕のある大きさを使いましょう。シチューなどは少し弱めの火加減で時々混ぜながら温めます。

 少し脅かしすぎたかもしれませんが台所で安全に作業すること、注意深く動くことは生活のあらゆる場面で役にたつと思います。

福岡県PTA連合会機関誌/令和3年5月号から「食卓の調味料/NO.103」
  私がついうっかり料理研究家になってしまったのは、母から強引に短大の栄養科に入れられたからです。もちろん今では大感謝なのですが…。授業中は、ボーッと空想しているか教科書以外の本を読んでいるかの落ちこぼれ学生。卒業時に頭に残っているものは皆無。今となっては高い授業料を払ってくれた親に対して謝ることもできません。

 先日「先生の料理は薄味でおいしいです」と生徒さん。言われてみて気がついたのですが、外で食事をするとほぼ味が濃すぎて。あとでのどが乾きます。

 母は料理上手でしたが煮物などは甘辛く濃い味だったように思います。するとですね…私の味覚は2年間の学生時代で培われたのかもしれません。そうであるならばボーッと過ごしたあの時間も決して無駄ではなかったということです。それどころか素材の味を感じさせる薄味が身について、私や家族の健康の礎を築いてくれたのでした。

 皆さんの作る料理の味付けはどうでしょう。もし濃いと思われたら「今からでも味覚は変えることができますよ」と言えるのは私の経験からです。

 簡単なことから始めましょう。インスタントラーメンなら、指示された分量より水を多く入れます。佃つくだに煮や塩辛などは子どもたちには刺激の強過ぎる食べ物だと思ってください。「うちの子は酒のつまみのようなものが好きで…」なんて自慢げに話す人がいるのには驚きますが…。

 餃子(ぎようざ)やしゅうまい。下味のついた焼肉にさらにタレをつける。それが当たり前になっていませんか。最近では減塩の行き過ぎが問題にもなっていると聞きますが。子どもたちには塩辛さを好む嗜好(し こう)を身につけさせたくはありません。

 よその食卓のことはよく分からないのですが…(誰も招いてくれないので)。

 昔はどこの家庭にもテーブルの上に調味料セットが置かれていましたが今はどうなのでしょう? 食卓にはちゃんと味付けされた料理が置かれているはずです。刺身や冷奴(ひややっこ)、納豆など食卓での味付けが必要な時にだけ調味料があれば良いのでは。必要もないのに何にでもソースをかける誰かさんのようになってしまいそう。何日も小さな容器に入れっぱなしのしょう油は風味が飛んでしまっています。慣れるとそれにも気付かなくなります。

 コロナの影響で家庭の中での食事がさらに大切になっています。皆さんの食卓が楽しく健やかであることを祈っています。

福岡県PTA連合会機関誌/令和3年3月号から「お金で買えないもの/NO.102」
 私の知人は山間の小さな町で代々続く旅館の女将でした。お客の減少と建物の老朽化もあって惜しまれながらも昨年の春に閉じてしまいました。

 しばらくして「老人施設の相談役として就職した」と手紙がきました。「相談役と言っても雑用係ですけど」と、ふざけながらも弾んだ筆使いに彼女の意欲が見えます。

 数カ月してメールをもらいました。いきなり「山際さん、今の時代笑顔にもお金がかかるのよ」と…。かいつまむと、長年サービス業を営んでいた彼女は、入所のお年寄りは大切なお客さま、誰彼となく声をかけ、笑顔で対応していたのだそうです。するとある日、施設
長から呼ばれて「ニコニコと誰にでも話しかけるような非効率なことはやめてください。入所を考えて施設見学にこられた方にだけには愛想良くして」としかられたのだそうです。それから彼女が笑顔を節約したかどうかは書かれていませんでしたが笑顔にもお金がかかる…。考えさせられますね。

 お金さえあればなんでも買える。お金で買えないものはない。というのが資本主義の行き着く先でしょうか。近内悠太著『世界は贈与でできている』にこんな話が出ていました。

 1900年代にスイスのある村でアンケート調査がされました。村が原子力発電所からの廃棄物の処理場の建設を受け入れるのに賛成か反対か。結果は賛成が51%だったのだそ
うです。2度目のアンケート調査が行われました。それには建設を受け入れれば村には多額の補償金が支払われるとの一項が加わりました。その結果は信じられないことに賛成が25
%に減ってしまったのです。住民は原子力の恩恵を受けているのだから負担も引き受けなければとの「公共心」からの賛成だったのに、お金と引き換えというのでは話が違うと思ったのだそうです。ほっとする話ですがこういうことは意外に身の回りにも多くありそうです。

 金で買えないものをあれこれと思い浮かべられる人は幸せかもしれません。コロナで経済格差が広がっています。それを不幸な結果で終わらせないために私たちが考えることは
たくさんありそうです。

 「太陽のエネルギーも空気も無料で使っている」とは私の中学校時代の93歳になられる美術の先生の言葉です。

福岡県PTA連合会機関誌/令和3年1月号から「幸せになりたいなら/NO.101」
 いつも自分は損な役回りばかり、どうして良い友だちに巡り会えないのだろう、ほかの人はどうしてあんなに豊かそうなのかしら。なんて思うことありませんか。若い頃の私もそうでした。

 書店をのぞくと、「幸運を呼び込む方法」「愛される生き方」「人生に奇跡が…」。読むだけですてきな人生がやってきそうな本の数々。書いてあるように笑顔を絶やさず、いつもポジティブ思考でマイナスな言葉を使わず、身ぎれいにていねいな生活をすれ
ばあなたにも幸せが…。確かに! でもね、世の中こんな人ばかりだと少し気持ち悪くないですか。

 苦労や悩みのない人生なんてありえない、それも含めて豊かな人生なのかなって思
いますけど。棚ぼたで幸せがやってきたり、いつも良い思いばかりする人生ってあり得ないです。とはいえ幸せの方向にいつも手を差し伸べていたいですね。

 最近カナダの作家モンゴメリの作品『赤毛のアン』が「アンと言う名の少女」と題してテレビで放映されて、アンは男性にも人気者になったようです。(赤毛というのは差別的な表現らしくて最近は使えないとか)

 孤児のアンがカナダのプリンスエドワード島のグリンゲーブルズに住むマリラとその兄のマシューに引き取られて美しく賢い女性に育っていくというお話ですが、その中に大好きなエピソードがあります。

 大人がみな、町へ出かけて子どもたちだけで留守番という冬の夜…アンのところに友のダイアナが「妹が咽頭(いんとう)炎になった」と助けを求めに来ます…。ダイアナの家に駆け込んだアンが若いお手伝いに言い放ちます。「やかんにはお茶わん1杯の水しかないわ。水をたっぷり入れたからストーブのマキをどんどんくべてちょうだい。気を悪くするかもしれないけど…。あんたに少しの想像力があればこんなことはもっと前に気づくはずよ…」。小さな子どもがゼイゼイとせき込んでいるのだから部屋を暖かく蒸気で満たしておかなければとは思わないのって。「あんたに少しの想像力があればこれくらいのこと気づくはずよ」。…この言葉心にしみませんか。

 アンはこの想像力で自分の力でしっかりと幸せを掴つかんでいきます。「想像力」。わかりやすく言い換えれば「気が利く」ってことです。いろんな場面で自分のすべき役割に気づ
きその役割をちゃんと果たす。これですよ。幸運をつかむ一番の近道。

 料理教室でいつもお皿を洗い、ゴミを片付けてくださるあなた。最近のデーターで、そういう人が成功を収め幸せになると出ていました。

福岡県PTA連合会機関誌/令和2年11月号から「見て見ぬふり… /NO.100」
 9月のまだ暑さが残る日に家の近くを歩いていました。向こうのバス停付近で何か動いています。近づくとそれは高齢の男性が仰向けに倒れていて起き上がろうとしてもがいているのです。私は横を通り過ぎながら男性の方に手を伸ばしました。その手に軽く触れながらその方は上半身を起こしました。もう少し手に力を込めて立ち上がらせようとすると、「この体勢になったら大丈夫…。乗りたいバスが来たので走ったのが間違いだった」と言いながら立ち上がられました。私はそのまま歩き去りました。その間10秒足らず。

 「おじいさん大丈夫?気をつけてくださいねー」なんて優しい声をかけるのは私の柄ではないし…。よい歳をしてこれでも照れ屋なのです。

 それにしても横で珍しい生き物でも見るように。突っ立っていた男性はなんなの? 避けるように早足で通り過ぎていった女性たちはどうしたのでしょう。

 高齢になると筋力が弱って、寝た状態から立ち上がるのが難しくなるのをご存知ないのかしら。ご自分も座った状態からでも「どっこいしょ」と声を出さないと力が入らなくなっていると思うのですが…。

 転んでいる人がいれば手を差し伸べ、迷っている人がいれば声をかける。ごく自然な人間の優しい衝動だと思うのですが、一体何をちゅうちょするのでしょうか。手と手が触れればコロナに感染する。まさか!

 見て見ぬふりをするのはどういう心理なのでしょう。ネットや本で調べてみました。心理学研究家のゆうじ氏のがわかりやすかったので参考にさせていただきました。

 ●まず空気を読んでしまう…周りを見回して○○くんも動いてないから自分もいいか…という気持ち●責任を取りたくないという気持ち…自分がやらなくても誰かがするだろう。やって非難を受けたり中傷されたくないと考えてしまう●人の目を気にする…電車で席をゆずって断られたらと嫌だなーと思ったり、人の目が気になる。●対処法がわからない…これも多いと思うのですが、どうしていいかわからない。

 そうですねその気持ち、だれにだってありますね…克服するのは簡単ではないかもしれませんが、少しの勇気の積み重ねでなんとかしてみたいものです。

 また食のことに触れずじまいでしたが、私は「かわいそう」と口で言うだけでなく、持っているおにぎりを半分分けて差し出せる人になりたいと思うのです。